目黒不動尊・瀧泉寺(めぐろふどうそん・りゅうせんじ)wiki
瀧泉寺(りゅうせんじ)は、東京都目黒区下目黒に所在する天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王像を本尊とすることから、古くより「目黒不動尊(めぐろ ふどうそん)」「目黒不動」「お不動さん」などと通称されている。江戸三大不動の一つ。江戸五色不動の一つ。江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。一帯の地域名「目黒」は当寺に由来するとの説がある。さつまいもの栽培を広めた青木昆陽の墓があることでも知られる。寺伝では、大同3年(808年)、15歳の円仁が下野国から比叡山の最澄の元に赴く際この地で霊夢を見た。青黒い顔をし、右手に降魔の剣を提げ、左手に縛の縄を持つ恐ろしい形相の神人が枕上に現れて『我この地に迹を垂れ魔を伏し国を鎮めんと思ふなり。来つて我を渇仰せん者には諸々の願ひを成就させん。』と告げられたという。夢から覚めた円仁がその姿を彫刻したのが、本尊の目黒不動明王になる。 堂宇建立を決意した円仁が法具の獨鈷を投じたところ、そこに泉が湧出した。その泉は「獨鈷の瀧」と名付けられ、この泉に因んで「瀧泉寺」とした。東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、当寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明である。その後貞観2年(860年)、清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を「泰叡山」とした。元和1年(1615年)、本堂が火災で焼失した。寛永7年(1630年)、寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、寛永11年(1634年)、53棟におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿(めぐろ ごてん)」と称されるほど華麗を極めた。徳川家光がなぜ瀧泉寺を篤く庇護したか、その原因となる話が伝わっている。家光が目黒で鷹狩りをした際、愛鷹が行方不明になってしまった。そのとき、目黒不動尊御宝前に祈願したところ、忽ち鷹が本堂前の「鷹居の松」に飛び帰ってきたという。この霊験を目の当りにした家光は、瀧泉寺を篤く尊信したという。文化9年(1812年)、「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」が行われた(他は、湯島天満宮と谷中感応寺。)。富くじ興行は天保13年(1842年)天保の改革により中止となった。寺名の由来となった、境内の独鈷の滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、『江戸名所図会』にも描かれている[3]。周辺一帯は景色を眺めながら諸寺に参詣できる一大観光地であったこともあり、当寺の門前はいくつもの店で賑わった。現在の下目黒と上大崎にまたがる行人坂から当寺の門前までは、料理屋や土産物屋がぎっしりと並んでいた[2]。落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台とされる。江戸時代には大いに栄え、門前町が発達した。門前町の名物として、当時目黒の名産品であった筍(江戸時代後期に薩摩藩より移植したものが商品作物として普及した)を使った筍飯/たけのこ飯(たけのこめし)と棒状に伸ばした白玉飴(練飴の一種)を包丁でトントン切っていく「目黒飴」が人気であった。また、細い竹にしんこ餅を付けた「餅花(もちばな)」というものや、粟餅などもあったという。『江戸名所図会』にはこの目黒飴屋の風景が載っていて、図会に載っている絵では従業員が10人近くみられる大店であったことがうかがえる。
【御祭神】
【祭事】
【紀行説明】 都内ではあまりにも有名な目黒不動尊、平日でも参拝者が多い。歴史は不明だがね整備された敷地内にいくつかの狼像がある。まず参道にある対の像は狼像なのかもしれないが、どう見ても狼というよりはお犬様の様だ。ある程度古い像ではあるが山門の前の参道にある為かなり目立つ像だ。参道の左に独鈷の滝と池があり、滝を挟んで対の狼像が二体と親子像が本殿に上がる階段左脇に一体ある。滝の像は狼像ぽいが親子像はお犬様に見える。 そして滝の左奥にある立派な瀧泉寺(前不動)の前には対の狼像があり阿吽の像になっている。この二体と池の像は狼を思わせる肋や歯の形などが見られ、狼像として紹介する。都内でよく見るタイプの像で池の対の像も同じタイプだ。下を向いていらっしゃる狼像は大きくはないが、修復もあり時代を感じる像だ。この瀧泉寺前不動堂を守っている像だからずっとここにあったのだろう。